妊娠出産に関わる病気・胎児の健康とエピゲノム

タバコなどの生活習慣がエピゲノムを変化させ、がんの発生に影響を与えるという研究については「がんとエピゲノム」で紹介しました。ところで、エピゲノムの変化は大人になってからのみ、起こるのではありません。お母さんのお腹の中にいる胎児、さらに遡れば、受精する前の精子・卵子の段階から、それは始まっているのです。そして、精子・卵子、胎児の細胞のエピゲノム状態が、妊娠出産に関わる病気や、胎児の出生後の健康に影響を与えることが、わかりつつあります。

妊娠初期に赤ちゃんの中でエピゲノムは大きく変化する

 受精卵が発生を始めて間もない妊娠初期は、ゲノム全体で大きなエピジェネティックな変化が起きる時期です(図1)。精子と卵子のゲノムには、それぞれ父親と母親のエピゲノム情報が付けられていますが、受精して新しい世代が始まると、エピゲノム情報の大半はリプログラミングされ、親から子へは伝わりません。リプログラミングというのは、古いパソコンを初期化してゼロから使えるようにするようなもの。遺伝子のはたらきをコントロールするDNAのメチル基などの目印が外れ、将来すべての細胞に分化できる準備状態になることをいいます。ヒトの場合、受精して直ぐにリプログラミングが起こり、およそ14日後に子宮へ着床するまで続きます。その後、リプログラミング完了後のいわば再インストールが行われます。その際、神経の細胞、心臓の細胞というように、個々の組織の細胞ごとに異なる目印がついていき、細胞の役割分担が進むことで、胎児の身体ができあがるのです。

(図1)受精前後のエピゲノム情報の変化
(図1)受精前後のエピゲノム情報の変化

目印がうまく付かない病気がある

 胎児の身体でエピジェネティックな変化が起こるとき、欠かせない成分の1つが「DNAメチル化酵素」です。DNAメチル化酵素は、その名の通り、DNA にメチル基をくっ付けて目印を完成させる重要なはたらきをします。そして、DNAメチル化酵素がうまくはたらかず起こる病気の1つに、「ICF(immunodeficiency, centromeric instability, facial anomaly)症候群」があります。先天性免疫不全疾患であるこの病気の患者さんでは、DNMT3BというタイプのDNAメチル化酵素に異常があり、細胞のDNAのメチル化状態が低下していることが分かりました。そこで、メチル化酵素に異常が起きるしくみを解明し、治療につなげる研究が進められています。

○Additional Information(九州大学生体防御医学研究所ゲノム機能制御学部門エピゲノム制御学分野)
http://www.bioreg.kyushu-u.ac.jp/labo/epigenome/research/icf-ips2.html

一部の遺伝子ではリプログラミングがおきない--インプリンティング遺伝子--

 受精によって誕生する新しい世代は、父親と母親のゲノム情報を半分ずつ受け継ぎ、エピゲノム情報はリプログラミングされます。しかしいくつかの遺伝子では、リプログラミングの時期にエピゲノム情報が消されず、精子と卵子に付いていた情報が子の細胞の中で維持されることが分かっています(図1の註)。とくに、父親由来か母親由来かでエピゲノム情報の付き方が異なる遺伝子はインプリンティング遺伝子とよばれ、ヒトゲノムの中に100個以上あります。インプリンティングとは「刷り込み」のことで、リプログラミングでも消されないような強固なエピゲノム情報が付いている状態をいいます。インプリンティング遺伝子は父親由来なら「オン」母親由来なら「オフ」というように(あるいはその逆)、いつでもどちらか片方だけはたらくよう、きっちり刷り込みのパターンをコントロールされているのが特徴です(図2)。

(図2)インプリンティング遺伝子
(図2)インプリンティング遺伝子

 もし胎児が、父親と母親からインプリンティング遺伝子をペアで受け継ぐことができないと、困ったことが起こります。例えば、受精前の卵子が卵巣で細胞分裂を進めてしまうことがまれにありますが、これは奇形腫という良性の腫瘍となります。また、受精後に何かのきっかけで父親由来のゲノムが消失すると、あたかも胎盤だけを妊娠したような胞状奇胎という状態になり、産婦人科の治療が必要になります。両親由来のゲノムがそろわないと、オフ状態のインプリンティング遺伝子しかもらえず、発生に異常が起きてしまうのです。

 インプリンティング遺伝子が存在するのは、背骨をもつ動物の中で胎盤をもつほ乳類だけです。この仕組みがあるため、母親由来のゲノムは父親由来のゲノムの替わりになることができず、単為発生*が妨げられていると研究者は考えています。

*単為発生:
卵子から受精無しで子が育つこと。昆虫やは虫類ではしばしば見られる現象。ミツバチの女王蜂が生む雄は単為発生のため、染色体の数は雌の半分(半数体)である。

○Additional Information
①「卵子2つから作られた「二母性マウス」が誕生!(Nature特集記事)」 
http://www.natureasia.com/ja-jp/jobs/tokushu/detail/41
※2004年、東京大学の河野友宏氏はインプリンティング遺伝子を人工的に改変したマウスの卵子を2つ組み合わせ、ほぼ単為発生にちかいマウス「かぐや」を作製することに成功しました。

②インプリンティング遺伝子の一部が父母由来でペアにならないため起こる病気
難病情報センター http://www.nanbyou.or.jp

※たとえばプラダー・ウィリー症候群の患者さんは、何らかの理由で生まれる時に15番染色体を母親から2本もらってしまうことが(片親性ダイソミー)、発症の原因だと言われています。

妊娠期のエピジェネティクス変化が、子供の将来の健康状態を決める!?

 妊娠期の母親の栄養状態やストレスは、胎児のエピゲノムの状態を変化させ、子孫の一生にわたる健康状態に影響を及ぼすことが指摘されています。数万人規模で特定の集団の健康を追跡するコホート研究や、マウスなどモデル生物の実験で、その影響の程度や細胞内のメカニズムが徐々に明らかになってきています。

 1944-45年の冬、第二次世界大戦中のオランダのある地域で、人々の一日の摂取カロリーが400-800キロカロリーという極端な飢餓がおこりました。のちの調査で、母親が妊娠初期(10週間)に飢餓環境を過ごした子どもたちは、その後60年にわたる人生で、肥満などの生活習慣病になるリスクが高いことがわかりました。さらに彼らの遺伝子を飢餓環境に晒されなかった同性の兄弟と比較すると、IGF2という成長に関わるインプリンティング遺伝子のメチル化状態が低下している、という結果が出たのです。一方、妊娠後期に飢餓環境に晒された母親の子供には、IGF2のメチル化状態の低下は見られませんでした。研究者は、出生時の体重の違いよりも、妊娠初期の母親の栄養状態の方が、子供の生涯にわたるエピジェネティックな変化に影響を与えやすいとも主張しています。

○Additional Information(英語原著論文)
Persistent epigenetic differences associated with prenatal exposure to famine in humans.
http://www.pnas.org/content/105/44/17046.short

生殖細胞の謎

 胎児期のエピゲノム情報をみていると、特別な変化を示す細胞があります。胎児期の子の身体のごく一部分で、将来、精子と卵子になるために作られる「始原生殖細胞」です。始原生殖細胞は、胎児がやがて大人になり生む子供、つまり両親にとっては“孫”にゲノムを受け継ぐ可能性のある唯一の細胞といえます。そして始原生殖細胞だけは、「インプリンティング遺伝子ではエピゲノム情報が消されない」というルール(図1の註)が適用されません。始原生殖細胞では強固なインプリンティング遺伝子のエピゲノム情報までもが消され、子の性別に依存した“刷り込みなおし”が起こるのです(図3)。とても複雑なしくみで未だよく分かっていないことが多いのですが、生殖細胞のエピゲノム研究が進み、医療に役立てられることが期待されています。

図3

○Additional Information
①「ゲノムインプリンティング-世代に刻みこまれる時(JT生命誌研究館)」
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/038/research_11.html
※“刷り込みなおし”のしくみが、わかりやすく図解されています。

②「生殖細胞の謎に迫る( 日本医療研究開発機構)」
http://www.jst.go.jp/erato/news/2012/2011_11_p06.pdf
※ iPS細胞から始原生殖細胞をつくりマウスを誕生させることに成功。「斎藤全能性エピゲノムプロジェクト (ERATO)」斎藤通紀氏のインタビュー記事です。

取材協力佐々木裕之(九州大学生体防御医学研究所・教授)
佐々木裕之(九州大学生体防御医学研究所・教授)